六間道路グランプリ 外伝

(2024年エンシュージアストVOL.8号より再掲載)

「ものづくりのまち」を標榜する浜松その三大産業といえば、バイク、楽器そして繊維産業

 遠州と呼ばれる浜松市を含む静岡県西部地区は、温暖な気候と豊かな水資源に恵まれ、江戸時代中期から有名な綿花の産地だった。それを加工する機織りも、農家の副業として盛んに行われていた。
 東海道のほぼ真ん中に位置し、東西の文化が往来する土地柄でそれを受け入れる風土も、遠州の「ものづくり」に大きな影響を与えたに違いない。
 明治維新後、近代国家政策によって推し進められた軽産業の機械化や海外からの技術輸入の波は、遠州にも押し寄せ、綿花を原料とした綿織物の生産地として大きく成長させた。
 大正元年には、鉄道院中部鉄道管理局浜松工場(現・東海旅客鉄道浜松工場)が誘致され、当時の最先端技術が集結し、それは周辺の機械技術の進歩に大いに影響を与えた。また、関東大震災で被災した多くの職人が浜松を中心に遠州地方に移住してきたことで、ものづくりの技術力が底上げされていった。
 紡績工場、染色工場も大手から多種多様な織物をつくる個人経営の工場まで数多く操業し、遠州産地・遠州織物として全国に名を馳せた。

より効率的な動力織機の開発そこにはピアノ、バイク製造に通じる多くの技術が集積されていた

 より効率的な動力織機の開発そこにはピアノ、バイク製造に通じる多くの技術が集積されていた人力木製の織機から、動力を使った鉄製の自動織機へと進化していく中で培われた技術は、高度な木工加工、鉄工加工、鋳造、機械設計の基盤を育んでいった。
 それらの技術は浜松市北部山地からの木材の利用と相まって、国産オルガン製造からピアノ製造へとつながり、楽器製造の分野を大きく拡大させた。
 昭和8年には、機械化によって大量生産された日本の綿布は世界一の輸出量を誇るまでになった。昭和10年、愛知県東三河の豊田自動織機製作所(後にトヨタ自動車工業として分社)が国産初の乗用車を発表し、自動車製造業に進出。この知らせは遠州の織機製造に関わる企業に大いに刺激を与えたと考えられる。
 第二次世界大戦時には楽器、織機メーカー、紡績工場も軍需工業への転換を余儀なくされた。
 終戦後、日本が復興を目指す中、昭和25年に朝鮮戦争が勃発。その特需で日本の復興は加速し、繊維業界では「ガチャマン景気」と言われた「織機がガチャンと織れば万の金が儲かる」と揶揄されるほどの好景気が訪れた。

浜松市南部の国道1号バイパスに沿って作られた、繊維関係卸商の集合団地「浜松卸商団地」。その中にエンシュージアスト編集部、バイクウエア専門店マックスフリッツ浜松店がある。この地に拠点ができたことで筆者には「繊維産業とバイク文化の交差点」がイメージできた。
浜松市南部の国道1号バイパスに沿って作られた、繊維関係卸商の集合団地「浜松卸商団地」。その中にエンシュージアスト編集部、バイクウエア専門店マックスフリッツ浜松店がある。この地に拠点ができたことで筆者には「繊維産業とバイク文化の交差点」がイメージできた。

 しかし、需要の浮き沈みや、安価な海外製品が輸入されて生産量が激減していく危機感もあったのか、バイクが庶民の足として普及する兆しを感じ取った浜松周辺の織機や部品製造工場が、その機械加工技術を応用してバイクの製造に挑戦するというムーブメントが起きる。浜松には、多い時は30社を越えるバイクメーカーが乱立したと言われている。
 ここからは想像の域を出ないが、バイクが金持ちの道楽と言われた時代、浜松で輸入バイクを購入して楽しむことができた層には、景気の良かった繊維産業関係者が多かったのではないだろうか。事実、本誌で度々取り上げる六間道路沿いには繊維産業関係の工場が戦前戦後とも多く存在し、そこから転身してバイクメーカーへ名乗りをあげた企業も多い。それぞれ独自の着眼点でバイクを研究し、欧米車の性能を地場の工業力で再現できることを見事に証明してみせた。

忘れてはいけない偉人たちの功績「ものづくり」への不屈の情熱がそれぞれの産業を大きく育て上げた

 湖西市出身の豊田佐吉は、日本で最初の木製動力織機を発明するなど、豊田紡織、豊田自動織機製作所などを創業したトヨタグループの創始者。日本の機械産業の発展・近代化に大きく貢献した。その息子である豊田喜一郎は、父親の豊田佐吉から引き継いだ精神と事業を基盤に、自動車事業へ進出し、今日のトヨタグループの礎を築いた。
 大工から転身した鈴木道雄が創業した「鈴木式織機製作所」は足踏み式の小型織機から始まり、鈴木式織機株式会社に改組して動力織機に進出。終戦後は戦前から模索していたバイク製造に乗り出し、鈴木自動車工業株式会社に社名変更。バイクに次いで軽自動車の製造も開始した。
 浜松でオルガンの修理をしたことがきっかけで、国産オルガンの開発に成功した山葉寅楠は、「日本楽器製造株式会社」を設立しピアノの製造を皮切りに、楽器事業を展開。終戦後、接収されていた工場の接収解除後、バイクの製造に乗り出し、その後ヤマハ発動機として分社した。
 東京で自動車の整備・修理を学び、浜松で「アート商会」を開業した本田宗一郎は、無線機の動力の再利用から始まり、自転車用補助エンジンの開発・製造を開始。六間道路での試走の先陣を切った。
 この偉人たちに共通して言えるのは、創意工夫の天才であったことではないだろうか。それぞれ地場の工業力が上がることに尽力し、新しい可能性に挑戦することで道を切り開き、それが今も連綿と浜松、遠州、そして日本の産業の発展に大きく繋がっている。

繊維の街の象徴、卸本町

 現在エンシュージアスト編集部が拠点を置き、同じ建物内でマックスフリッツ浜松店を運営するのは浜松市中央区卸本町。ここは隆盛を誇った繊維関係の卸商の団地だ。昭和40年代の高度成長期、手狭になった浜松中心街の問屋街から集団移転する話が持ち上がり、交通の便が良い国道1号線バイパス沿いに、浜松の繊維産業の物流拠点として生まれた街である。現在では繊維産業以外の企業や店舗も増え、昭和レトロな雰囲気が残る街は新たに注目されている。

夜のマックスフリッツ浜松店前。団地内は夕方早めに各店舗のシャッターが閉まり、日没後は静かで不思議な雰囲気に包まれる。

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