(2017年エンシュージアストVOL.1号より再掲載)
未来につながる一本道!
「おい、俺りゃ昨日50キロ出しただにぃ!」「ほんとけぇ、そんじゃあ、今日ワシがそれを抜いたるでのー、55キロじゃ」──威勢のいい声と共にきらきらと目を輝かせた男達がオートバイにまたがり、街のあちこちから集まってくる。やがて、何台かが道路を一気に駆け抜けたり、何人かは、エンジンや車体を自慢し合うバイク談義に夢中になったりと、道路は賑わいと活気であふれた。

浜松『六間道路』、現在もその愛称で、静岡文芸大や遠州病院、消防署が立ち並び、浜松市街を東西に走る交通の要所となっている大通りである。時は、昭和20年代半ば、本田宗一郎の「本田技術研究所(山下町)」をはじめ、ライラックの「丸正自動車」ラッキー号の「ヤマト商会」ライナー号の「北川自動車工業」など浜松には多くのオートバイメーカーが生まれていた(昭和28年には35社)。各社が個性や性能を競い合い、しのぎを削っていた時代、広く長いい直線と西端にはヘアピンカーブや坂道を有する六間道路は、オートバイの速度を測定したり、登坂試験やブレーキテストをしたりするのには恰好の道路であった。オートバイメーカーや関連工場がこの道路周辺に寄り添うように建ち、さながらオートバイの大工場、あるいはレース場と化していた。

「ああ、こんな夢のような時代が来るとは…」伊藤正(まさし)は青空を見上げ、そう呟いた。当時、数あるメーカーの中で異彩を放っていた『丸正自動車製造株式会社(後の株式会社ライラック)』の創始者である。彼がそう思うのも無理はない、ついこの間まで日本は戦争をしていたのだ。その間、浜松の工場という工場は戦争のための軍需品づくりを強要され、好きなものを造れなかった。そして、昭和20年の6月、浜松は米軍による最後で最大の爆撃を受け、街は焼け野原、何もかもが破壊されたのだった。迎えた終戦、明日がどうなるかなど誰も想像できなかった時代だったからである。


オヤジとの因縁!
『仕事はやめだ、一年間、俺は遊んで暮らす!』焼け野原を前に、そう宣言したのは本田宗一郎だった。彼は、天竜の村から東京の自動車修理工の丁でっち稚(見習い)時代を経て、若くして独立を果たし浜松で自動車修理工場『アート商会』を開く。その後、一介の修理工場では満足せず、製造業へと転換を図るため新たに会社(東海精機)を興して高度な技術を要するピストンリングの国内製造を実現した。その直後の敗戦であった。混沌の中で、宗一郎はジタバタせず将来を冷静に見極めようと考えての充電期間であったといわれる。
伊藤正はその『アート商会』で丁稚奉公として働いていた。伊藤正は磐田の出身であるが、最初は上京してせんべい屋で働いた。しかし、奉公先の重労働から両膝の軟骨が飛び出す大けがを負い、治療のため帰郷を余儀なくされた。そして、縁あって宗一郎の下で働くことになったのだった。
宗一郎の仕事の厳しさ、弟子の扱いはむちゃくちゃだったという。手が出る足が出る、スパナで頭を殴る…。伊藤正も例外なくしごかれた。「オヤジ(宗一郎の愛称)に殴られた跡は、10円ハゲになってずっと残ったよ」と、生前、伊藤正は語っている。伊藤正はしごきに耐え、年季を終えて一人前の整備工に成長したが、ついには宗一郎のもとを離れ、野口町に自動車修理工場『丸正商会』を開いた。しかし、戦中は、宗一郎に誘われ一時、東海精機に課長として勤めるなど、その後の関係は続いていた。宗一郎の過激な言動には、どこか憎めぬ魅力があったといわれる。戦後、伊藤正は上池で自動車修理会社を再開する。そして、有能な技術者、溝渕定をスカウトして順調に商売をすすめていくのであったが、オートバイ製造には手をつけていなかった。
一方、人間休業宣言から1年余りを経て宗一郎が着手したのは、陸軍で使用していた無線用小型エンジンを自転車に載せた原動機付き自転車の開発だった。安くて手軽なオートバイがあれば人の足となり、街の復興につながると考えたからだ。それは『バタバタ』と称され庶民の人気を博し、さらに車体から自社で造る本格的オートバイのドリーム号へとつながっていくのであった。
当時、浜松にはすでにものづくりの基盤があった。その原点に遡ると、現在のJR東海浜松工場の前身、1912(大正元)年操業の『鉄道院浜松工場』にたどり着く。浜松は、この工場建設のため他の候補都市との熾烈な誘致合戦の末に工場建設を勝ち取る。そこに、機関車の修理・製造のために全国から腕利きの職人が集まってきたのである。やがて彼らの技術は浜松地場産業の織機や楽器産業、工作機械へと拡散し、その技術力の発揮が浜松を一大工業都市にのし上げたのである。それゆえ、多くの工場技術者は、宗一郎が拓いたオートバイの未来を信じ、オートバイ製造へと走ったのだ。
六間に咲いたライラック!
「伊藤社長、うちもオートバイを造りましょう!」ホンダでエンジン設計をしていた河島喜好と浜松工専(現静大工学部)で同期だった丸正の溝渕定もオートバイづくりを夢見た。宗一郎にリベンジを考えていた伊藤正は、その言葉に動かされた。「しかし、やるならオヤジとは違うオートバイを造るんだ!」伊藤正のライバル心に火が付いた。
宗一郎の下で身につけた伊藤正の技術力はピカイチであった。そこにアカデミックな溝渕の設計思想と技術が加わって、六間道路で試作車を走らせる日々が始まったのである。彼らが出した答えはチェーンに代わるシャフトドライブの採用だった。1948(昭和23)年の「ライラックML」の成功を皮切りに、独特なデザインと優れた設計で次々に名車を発表、丸正自動車の快進撃が続いた。
1952(昭和27)年には増産体制、翌年には業務拡張のため、浜松から本社を東京へ移転。名古屋、福岡に支店開設。正は浜松モーターサイクル工業会の理事に就く。オートバイ産業が隆盛を極め、全国的なレースも盛んに行われるようになる。1955(昭和30)年、第一回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)250ccクラスでライラック号(SY型)は念願の優勝を飾る。「やった、オヤジに勝った!」伊藤正が本田宗一郎に肩を並べた瞬間だった。



未踏の道に挑む!
戦後の浜松オートバイ産業黎明期である六間道路時代、伊藤正にとって宗一郎は師匠でありライバルであった。今では信じられないことだが、宗一郎は丸正に立ち寄っては様子をうかがったり、実車を前にして助言をしたりしたという。お互いに切磋琢磨し、それぞれの哲学でオートバイづくりを目指したオープンな時代。おおらかな時代ゆえ夢もチャンスも大きかった。確かに丸正自動車はホンダとともに六間道路を制し、浜松を代表するオートバイメーカーとなった。しかし、次なる道は浜松圏外、そして世界だった。その道には時流の急カーブやビジネスの落とし穴があり、オートバイづくりの成功は製造技術に加え、企業のハンドルを握る経営者としての技量にもその運命がかかっていた…。

協力者(敬称略):
高須修(元丸正自動車製造株式会社エンジン開発・設計者)、日置義明(ライラック友の会)
参考文献:
浜松市博物館『浜松オートバイ列伝』『ライラックの軌跡』、天野久樹『浜松オートバイ物語』、鈴木康雄・志水三喜郎『劇画・本田宗一郎青春伝』
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